「目は口ほどに物を言う」という諺があったり、人と話をするときには普通目を見て話すとおり、目は仏像において良く見られる非常に大事なパーツになっています。その目をみてみると目をうっすら開けていたり、目をカッと見開いていたり様々です。何か違いはあるのでしょうか。
如来や菩薩は優しい表情を浮かべ、目も見開いてもなく閉じてもいない、半眼(はんがん)が多く見られます。如来の目は三昧(さんまい)といって心を静めて乱れず集中している状態を表すので、禅定の相であります。
菩薩の代表といえる観音菩薩は、明王像とは違い優しい慈悲を表した表情をしていることが多いです。それは観音経(かんのんぎょう)という経典の中に慈眼視衆生(じげんししゅじょう)とあるように慈悲の眼で衆生を見つめている優しい表情をしています。
明王や天部などの忿怒相になってくると大きな目を見開いている像が多く見られます。これは我々衆生を救うために、仏の敵に対して怒っている目です。仏の敵を睨んでいるのと同時に我々を守ってくださっている目なので、いろいろな意味を含んでいます。
釈迦如来であるお釈迦様も出家後、6年の凄まじい苦行をした後、難行苦行では悟ることができないと知って、現在のインド、ブッダガヤーの菩提樹の下で深い瞑想に入りついに悟りを開き、仏陀・目覚めた人となられたので、釈迦如来像は、禅定の相であります。決して人の言葉や説明をきいて悟りを開いたのではなく、深い瞑想をして天地宇宙の声を聞き悟りを開かれたのではないでしょうか。このことからも仏教において瞑想とは非常に大事なものです。
日本の木彫仏を見るときに一番わかりやすいのは、玉眼(ぎょくがん)であるか否かであります。これは像にリアリティを与えるために水晶を眼の部分に入れ込んだ日本独自の技法で、鎌倉時代以降に盛んに行われました。
玉眼(ぎょくがん)の像は鎌倉時代以降と考えて差し支えないと思われます。しかし鎌倉時代以前の仏像に修理を施すときに玉眼を入れることがある場合はこれに該当しません。
これに対して彫りであらわす場合は彫眼(ちょうがん)といいます。玉眼(ぎょくがん)の方が彫眼(ちょうがん)よりも目が大きいといえるでしょう。金銅仏を見てみると眼の部分に銀などの金属を象嵌している像があります。
観音菩薩は有名な経典である「観音経(かんのんぎょう)」にそのご利益が説かれていますが、その中に「慈眼視衆生(じげんししゅじょう)」とあります。これは慈悲の眼で衆生を見つめるという意味ですが、その目や表情は慈悲の心を込めた表情を示しています。
全ての仏像が半眼ではなく、仏像の種類によって目を見開いていたりなどの違いがあります。
半眼とは目を開けているのでも閉じているのでもない状態のことをいいます。座禅をするには半眼が良いとされていますが、開けてしまうと心が乱れ、閉じてしまうと眠気が襲って来ることから半眼が良いとされているようです。座禅と仏像には何か通じるものがあるのかもしれませんね。